幸福のりば
なんでこんなことになっちゃったんだろう、とはそっとため息を吐いた。
終わりに近づいた夏の夕方は、エアコンをつけなくても窓から入る風がそよそよと肌を撫でて心地よい。
傍らでは芥川慈郎がすうすうと静かな寝息をたてて眠っている。
そしてその横では――生まれたばかりの赤ん坊が眠っている。つい一ヶ月前、が産み落とした男の子だ。
の育った家庭は厳しかった。の通っていた大学は実家から遠く離れていたが、厳格な父が独り暮らしを許すはずもなく、は4年間毎日片道2時間半電車に揺られて通学した。大学を卒業して父のすすめるまま父と同じ会社に就職し、やっとの思いで父を説得して独り暮らしを始めたが、子どもができた、とわかったのは社会人になったその年の年末のことだった。8週目に入っていた。
父に知れれば子どもは堕ろせと言われるだろう。悪阻はひどかったが誰にも言わずに出勤し続け、実家にはなんだかんだと理由をつけて正月を過ぎてからは一度も帰らなかった。はどうしても自分に宿ったその子を産みたかった。
そして、寒さもようやく和らぎはじめたある晴れた冬の日、は父に告げた。
「赤ちゃんができたの」
怒りで顔を赤くした父は誰の子だと問うた。少しの沈黙の後、は芥川慈郎の名を口にした。
父は今度こそ完全に言葉を失った。
芥川慈郎は、父と、そしての勤める会社の重役の息子だった。
赤ん坊が目を覚まして、ふにゃふにゃ言いながら顔を歪めた。赤ん坊が目を覚ますと、同時に慈郎も目を覚ます。
あ、泣く、とが思った時にはもう遅く、次の瞬間赤ん坊は顔を真っ赤にして泣きはじめた。 があやそうと赤ん坊を抱こうとすると、慈郎が寝た恰好のまま赤ん坊のお腹をとんとんと叩きながら話し掛けた。
「なーんで泣いてんの」
慈郎が話しかけると、赤ん坊は一瞬泣きやみ、黒目がちの目で慈郎をじっと見つめた。
だがまたすぐに泣き始める。
「」
に背を向けたままの慈郎が、赤ん坊を抱き上げて言う。
「ん?」
「お腹、空いたんだってさ」
慈郎はまるで赤ん坊の言葉がわかるようだ。赤ん坊はいつも、慈郎があやせば泣きやみ、彼が何を求めているのかも慈郎の言うことは間違ったことがない。慈郎は赤ん坊が眠れば一緒に眠り、赤ん坊が起きれば慈郎も目を覚ます。
赤ん坊がいなければ、どんな物音にだって簡単には目を覚まさないのに、なんだか不思議だ、とは思う。
片手で泣く赤ん坊を慈郎から受け取ると、ワンピースの肩紐を片方落とした。
「ちょっとあっち向いてて」
「なんでー?」
「いいから」
ちぇー、と口を尖らせて胡坐をかくTシャツを着た慈郎の背中が、少し遠い過去、高校生の頃の慈郎の制服の背中に重なって見えた。
と慈郎は中学・高校と同じ学校に通っていた。ある大学の附属だったが、外部を受験したと、そのままエスカレーターで大学に進んだ慈郎は、お互いにそれぞれの父親と同じ会社に就職して四年ぶりの再会を果たすに至ったということになる。
外部の大学を目指して、放課後教室で勉強していることの多かったのところに、慈郎はよく遊びに来た。部活をサボっているだの、補講から逃げているだの、そんなことを言って、慈郎は勉強しているの前の席に座って、ぽつぽつと喋ったり眠っていたりした。
「はさ、なんでいつも教室で勉強してんのー?図書室とかさ、いくじゃん、みんな」
「図書室には風がないでしょ。私、エアコンが嫌いだし、図書室じゃ窓だって開けられない。窓が開いてれば、色んな音が聞こえるし。みんなが部活やってる声も」
ある日、夏休みが終わってすぐの頃だったか、模試の結果が思わしくなかったは、いつものように慈郎が話しかけてきても、ろくに返事もせずにがむしゃらに鉛筆を動かしていた。
そんなを慈郎は半ば無理矢理外に連れ出した。「ここオレのひみつの場所」、慈郎に連れてこられたのは風のそよぐ川べりだった。
「オレ時々ここにくんの。テニスが嫌いになりそうな時とかね。今の季節、いちばんラッキーだったね、」
「そいつ連れて、外にいこうよ、」
お腹がいっぱいになったらしい赤ん坊の背中を叩いていると、慈郎がそんなことを言った。
「でも、」
「気持ちいい風が吹いてるよ。川まで散歩にいこうよ」
乳母車を押して慈郎と並んで歩く。慈郎の興味はあちらからこちらへとめまぐるしく動いて、川までの道々、慈郎はヒコーキ雲やタンポポの綿毛など、小さな発見をたくさんした。乳母車はやはり多少なりとも周囲の目を引き、「かわいいわねえ、何ヶ月?」と聞いてくるおばさんもいた。
川の土手に腰を下ろすと、もうビルの隙間に大きな夕日が見えた。
「あ、四つ葉のクローバーみっけ」
「ジロちゃん」
「ん?」
「私たちって、何に見えるのかな」
「若いおとうさんと、若いおかあさん」
「かな、やっぱり」
「うん」
「結婚してないのに?」
「うん」
乳母車の赤ん坊がふにゃあと泣いた。慈郎は何かでたらめな子守唄を歌いながら赤ん坊を抱き上げた。
は、自分の産んだ子をあやす慈郎を黙って見ていた。
半年以上もの間、何度も何度も自問した疑問。
どうしてあの時慈郎は、自分の子どもだと答えたのだろうか。
『オレの子です』
いつものあの調子で。
は立ち上がって空っぽの乳母車を押した。
「ジロちゃん、もう帰ろう」
学生時代からの友人であり、重役の息子である慈郎の名を口にしたのは咄嗟だった。
父の部下である『彼』を守るためにはそうするしかないような気がしたのだ。
勢いそのまま父は慈郎のところへ怒鳴り込んだ。
本当に君の子なのか、そうなのかと問いただす父の後ろでは青ざめていた。もう終わりだと思った。
そんなの気持ちを知ってか知らずか慈郎はのんびりと言った、「そうです。オレの子です」。
その後も何か父は怒鳴り続けていたが、それがどんな内容だったかは忘れた。
ただ茫然として、思わずそっと腹を撫でた。
慈郎の腕の中で、いつの間にか赤ん坊は眠ってしまった。の押す空の乳母車の音が、歩道の横の車の音に混じって夕暮れの街に響いている。
その時、が羽織っているカーディガンのポケットが、携帯の振動を伝えた。ディスプレイはそれがの父からの着信であることを示している。慈郎はちらりとを見たが、何も言わなかった。
まさか、とは思った。しかしその考えを打ち払い、躊躇しながらもは通話ボタンを押した。
「もしもし…。うん、うん、元気…。…えっ…。…………。…うん、わかった…すぐそっちにいく…」
『彼』だ。父の部下という立場。彼が、父にすべてを話してくれたのだ。
は、立ち止まって息を吐いた。そしてゆっくりとうなだれ、乳母車の押し棒に額をつけた。
ぽたり、と地面に雫が落ち、慈郎の見る見るうちに涙の染みが広がった。
慈郎は赤ん坊を抱いたまま同じ高さまで腰を落とした。
「…ジロちゃん…。ごめんね…ありがと…今まで、ほんとにありがとう…」
「うん。これから家、行くんでしょ?」
「うん…」
「じゃあはい。この子連れて」
慈郎は赤ん坊をに渡した。そしてそばの道路を走っていたタクシーを止め、の実家の住所を告げた。と赤ん坊をタクシーに乗せると慈郎はにっこりと笑った。
「、幸せになってね。元気な子に育ててね」
は、頷いた。母親に共鳴したかのように赤ん坊が腕の中で泣く。慈郎はバイバイ、と赤ん坊に手を振った。
ドアの閉まったタクシーの中から漏れる赤ん坊の泣き声が、急激に遠ざかっていく。
慈郎は、一人空の乳母車を押して歩き始めた。
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