クリスマスイブに彼女持ちの男と映画を観ていたのだから、考えてみれば奇妙な話だ。その映画の観方がもっと奇妙だったことは言うまでもないが。
 昨日映画を観た後、私たちはすぐに帰ったけれど、電話が繋がらなかったし時間も時間だったので侑士の家には行かなかった。
 今日も朝から侑士に電話が繋がらない。最初は寝ているのを邪魔したら悪いと思い、家に行くのはやめておいたが、朝から夕方にかけて五度、六度と掛けても繋がらないので私は不安になった。
 大きめのお弁当箱にお冷やご飯を詰め、小瓶に移し替えた梅干を無造作にバッグに突っ込むと、私はコートを羽織って家を出た。





 インターホンを鳴らしても返事がない。電気がついているか外から確認してくれば良かったと後悔しながら、もう一度ボタンを押す。
 やはり返事はなく、私の頭を考えうる限りの望ましくない事態が次々とよぎった。
 私が、私が呑気に映画なんて観ている間に侑士は。
 いてもたってもいられず、合鍵を鍵穴に挿し込もうとしたが焦っているせいでなかなかちゃんと入ってくれない。やっと入った鍵を力任せに回して、家の中に飛び込んだ。

 「侑士!」

 返事は、ない。
 私はパニックに陥りそうになりながら、雑にブーツを脱いで部屋に上がった。
 電気の点いていない冬の夕方の部屋の中はかなり薄暗く、いつもより散らかっていた。LDKにいないことは一目でわかったので、私は寝室に走った。

 「侑士?」

 侑士は寝室にもいなかった。
 侑士はこの家のどこにもいなかった。
 なんなのよもう、と呟いて私はへたりと座り込んだ。携帯を取り出してみたが、電話もメールも来ていないままだった。センター問い合わせをしようとした時、玄関の方から鍵穴がガチャガチャと回る音がした。
 私は弾かれたように立ち上がって玄関に走った。私が既に鍵を開けていたため、ドアの向こうの相手は一旦抜いた鍵をもう一度挿し込んで回した。その時間にさえやきもきさせられた私は、ドアが開いた時、心底ほっとした。

 「……?」

 侑士は靴も脱がないで玄関に倒れこんだ。侑士の手から離れた大きめの黒いバッグの中身がバラバラと散らばって床を滑った。その中に裸のカプセルシートが何種類かあったのを見て、私は侑士が病院に行っていたのだろうと思った。

 「侑士?大丈夫?」
 「うん…」

 私は靴を脱がせて侑士を支え、寝室に連れていった。かなり熱があるように思える。昨日より悪くなっているのではないだろうか、こういう時は出かけないで寝ていた方がいいのに。
 侑士のコートとマフラーを取ってベッドに座らせてから電気を点けた。明るい中で見てみると、寝室もいつもより散らかっている。

 「着替えて」

 私はタンスの引き出しから出した侑士のスウェットを手渡した。侑士は虚ろな目で頷いて、それを受け取った。
 侑士が着替えている間に私は玄関に散らばったままの侑士の荷物を片付け、お風呂場から乾いたタオルを持ってきた。侑士の汗を拭いて、ベッドに寝かせた。
 その後ふと自分がコートを着たままだったことに気づいた私は、コートをハンガーに掛けながら侑士に尋ねた。

 「いつから具合悪かったの」
 「終業式の日の夜からちょっと調子悪いな思ててんけど…」

 それなら先に言えば良かったじゃない、とは言わない。恋をすると、人間は大なり小なり愚かになるもののようだ。

 「そういう時はね。出かけずに寝てるものだよ」

 私はさっき回収してきた薬を手にして言った。

 「これ、貰ったんでしょ?水持ってくる」

 立ち上がりかけた私の手を何か熱いものが掴んだ。侑士が熱のために少し潤んだ目で私を見つめていた。

 「いらん。それ飲まへんから」

 じゃあ何のために病院に行ったのだろうと思ったが、私自身あまり薬を飲まない人間なので別にいいか、と思った。私は引き出しから出しておいた体温計を侑士に差し出した。

 「とりあえず熱測って。お粥食べれる?」

 侑士は頷いて上体を起こし、体温計を脇に挟んだ。

 「お粥作ってくる」
 「
 「何」
 「キスしてええ?」

 意味がわからない。
 なんなのだ、この脈絡のなさは。

 「何言ってんの。いつも勝手にするくせに」
 「あかん?」

 侑士は熱で少し弱気になっているのかもしれない。いつもならうつるから嫌、と流しそうなところだったが、迷子の子供のような顔をしている侑士を見ていたら、キスされてあげようという気持ちになった。

 「…いいけど」

 言い終わるか終わらないかのうちに侑士の唇が触れた。それはごく優しい触れるだけのキスだったにも関わらず、私を抱き締める力は今までにない程強かった。侑士が熱いので、上半身にその熱を受け止める私も汗が出そうになった。唇を合わせたまま、侑士は私をベッドに押し倒した。

 「ちょ…」

 予想外の行動に思わず体を捩ると、侑士は唇を離した。侑士の服の中に落ちたらしい体温計のエラー音が小さく聞こえる。

 「

 侑士は今度は強引に舌を送り込ませた。
 私は侑士に抱かれた。





 目が覚めると部屋は真っ暗で、服を着てそっと寝室を出て入ったリビングの時計は午後十時を指していた。
 お粥を火にかけると、風邪だったにしても異様に散らかっているリビングを片付けて、三日前から溜まっているのであろう洗濯物と洗い物を片付けた。
 …あんな抱かれ方をしたのは初めてだった。
 お粥が出来上がったら火を止めて帰ろうと思った。どうせ侑士は当分起きないだろう。
 そう思っていたのに、ちょうどお粥が出来上がった頃見計らったかのように侑士が起きてきた。

 「…気分どう?」
 「喉渇いた…」

 それでも大分顔色が良くなったように見える侑士は、のたのたとリビングに入ってきてソファーに座った。私は冷蔵庫の外に出しておいたミネラルウォーターをコップに注いだ。コップを手渡すと侑士はそれを無言で一気に飲んだ。もっと飲むかと聞くと首を横に振ったので、とりあえずそれはソファーの前の脚の短いテーブルに置いた。

 「お粥できてるけど食べる?」
 「うん」

 お粥をお茶碗によそっていると、ぽつりと侑士が言った。

 「
 「んー?」
 「ごめんな」

 私は振り向かずに答えた。

 「…うん。いいよ」
 「あのな」
 「何」
 「風邪ひいてる時って性欲強なるんやて」

 私はくるりと振り向き、つかつかと歩いてお茶碗とお箸を侑士の前のテーブルにわざと音が鳴るように置いた。

 「バッカじゃないの。はい!」

 侑士は少し笑った。

 「ごめんて。おおきに。は?」
 「私はいい」

 時刻はいつの間にか11時を回っていたのに私はまだ夕食をとっていなかったが、今更食事と言う気分ではなかったので、座って侑士が食べるのを見ていた。

 「うん、おいしい」
 「そりゃどーも」

 白粥においしいもまずいもないだろうと思うのだが、世の中には料理音痴というものが存在するらしいので、そういう人たちには悪いけれど自分がそうでなくて良かったと思った。

 「侑士、寒くない?何か上に着たら?」
 「平気」

 侑士がそう言うのならそうなのだろうと納得して、私は自分のために淹れた熱いお茶を一口飲んだ。

 「ごめんな」
 「何が」
 「ケーキ食べられへんかったやん」
 「…いいよ、別に」

 そう言えば、今日はクリスマスだった。キリストの生誕祭はあと一時間足らずで終わってしまう。
 クリスマスというのは、普通のカップルなら何かお互いにプレゼントをしたりするものなのだろうが、去年だってその類は何もなかったし、今年もきっとないだろうと思っていた。だから私は何も用意していないのだが、ふと――ふと、思った。

 「侑士、私何もプレゼントないけど、侑士もないよね?」

 きっと杞憂に過ぎない。そうだといい。

 「がめつい女やなあは。自分がないのに俺に要求するんか?」

 侑士は冗談めかして笑った。その顔はいつもと何ら変わりないように見えて、私は侑士が回復しつつあることを悟った。

 「そういう意味じゃない」
 「冗談やん」

 やっぱりそれは杞憂に過ぎなかった。内心ほっとしながらお茶を啜る。
 侑士が思い出したように言った。

 「あれ、どうした?映画。観た?」

 やましいことは何もないのに私はどきっとした。それでもすぐに平常心を取り戻して答えた。

 「観た」
 「どやった?」
 「ドイツ語だった」
 「そらそやろなあ。ドイツの映画やから」
 「そうじゃなくて、字幕がなかった」

 侑士はお粥を口に運ぼうとしていた手を止めた。

 「何、それどういう意味?」
 「だから字幕がなかったの。だからわかんなかった」

 少し考えた後、侑士は大笑いをした。そりゃそうだ。私だって笑ってしまいたいような状況だったんだから。

 「そら悪かったなあ。で、おもろかった?って言うてもわからんか…」
 「ううん。面白かった」
 「え、バイリンガルやったん?」
 「そんな訳ないでしょ。跡部先輩が訳してくれた」

 跡部先輩の名前を出すと、侑士は不思議そうな顔をした。

 「跡部?跡部がなんでおったん?」
 「たまたま会った」

 私は努めて冷静を装って言った。それはとてもうまくいったと思う、もともと隠すようなことは何もないのだから当然だ。
 この説明だけではどういういきさつで私が跡部先輩と映画を観ることになったのか、二人で観たのかもっと多くで観たのかもあやふやなままだったが侑士はそれ以上聞いて来なかった。普段からあまり口数の多くない私があれやこれやと説明するのも怪しいので、黙っているうちに話題は移り、そのことは忘れ去られた。
 今日は泊まらない方が侑士のためにもいいと判断した私は、侑士が食べ終わった後の片づけをして家に帰ることにした。もう日付を超えていたが、侑士の送るという申し出は断った。玄関まで送ろうとするのも断って、無理矢理ベッドに寝かせた。回復しつつあると思っていたが、私の力に負けるなんて侑士はまだ相当具合が悪い。
 洗ったお弁当箱をバッグに入れ、コートを着て玄関まで来ると、私が脱いだブーツがそれぞれ違う方向を向いて転がっていた。





 私は侑士が病院に行っていたのだろうと思った。

 どうしてあの時私は、そんな風に決めつけたりしてしまったのだろう。






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