「このメンバーの生徒会も、もうすぐ終わりなのよねえ」
休憩時間が始まってすぐ、生徒会役員が全員集まった長机で夕子先輩が折れたトッポの先を見つめて言った。
侑士のことで頭がいっぱいになっていた私は、それではっと我に返った。
「二年間もやってきた生徒会とお別れっていうのは、なんか寂しいな。続投が長太郎だけって言うのも、なんかちょっと残念だし。会長説も流れてただけに、ちょっと意外だったよね」
そう言われて、私は曖昧に笑った。生徒会が新体制でスタートするのは今年4月からだが、生徒会選挙自体は去年9月に行われ、次期役員はすでに決定していた。生徒会役員選挙は1・2年とも行われるが、2年生は毎年役職は変わっても、前年に務めた役員がそのまま引き続き役員になることが多かった。
例に漏れず長太郎は9月の選挙で新会長に就任が決定していたが、私は選挙に出ることすらしなかった。これと言って理由はない。実は「なんとなく」今年度の会計になった私が、「なんとなく」来年度の役員にならなかった、というだけなのだ。1年の選挙の時とは、自分の環境がかなり変わっていたということもあった。
返事に困って妙な間を空けた私が、話題を変えようとした矢先だった。
「正解だったんじゃない」
私たちは一斉に声のした方に視線を動かした。
集まった視線の先で、慈郎先輩がポテトチップスの袋を開けたところだった。
「さ、最近ちょっと集中力足りないよね。凡ミス多いし、なんかボーっとしてるし。昨日だって会議あったのに帰っちゃうしさ」
かっと顔が熱くなって思わず視線を泳がせた。
気まずい雰囲気が流れ、生徒会室には慈郎先輩がポテトチップスを食べる音だけが響いた。
夕子先輩が場を持ち直そうと、いつもの調子で言う。
「なーに言ってんの。昨日ちゃんと連絡くれたじゃない。大体ね、いっつも寝てるあんたにそんなこと言われたくないわよ、も」
「そういうこと言ってんじゃない。何があったのか知らないけど、プライベートを持ち込む奴には、会長は務まんないって言ってんの」
慈郎先輩はその場の雰囲気などおかまいなしにばりばりとポテトチップスを食べ続ける。夕子先輩は一旦引き下がったがなお、私への弁護の言葉を探している。長太郎はただオロオロするばかり。跡部先輩はいつものように眉間に皺を寄せて、ただコーヒーを飲んでいた。
「私、資料の続き、整理してきます」
私はそれだけ言って、生徒会室の奥にある資料室に向かって早足で歩いた。その途中で合ってしまった慈郎先輩の目には、一点の悪意も感じられなかった。
何か謝罪の言葉を言うべきだったと、ドアのノブを回しながら思ったが、顔が後ろを振り向きたがらなかった。
私は資料室に入ると、ばらばらな方向を向いて重なっている資料を同じ方向に揃えた。揃えながら作業の手順を考える。
「えーと」
自分を励ますかのように自然と口から出た不自然な言葉は、同時に上質紙に落ちた水が濡らした印字のように滲んでいた。
気づいた時には、資料はすっかり綺麗に整理されていた。
ずっと集中してものを見続けていたせいか、乾燥した目を瞬かせていると、資料室のドアが開いた。
「今日はもうその辺にしとけ」
跡部先輩が人影の見えない生徒会室を背に立っていた。静かすぎる周りの空気で、他のみんながもう帰ったのだとわかった。帰る時には、必ず残っている人に声を掛けるのが生徒会の無言のルールだったのに、3人は何も言わないで帰ってしまった。私はほっとしたような、寂しいような、複雑な気持ちになった。
「今終わったところです。もう帰ります」
私は跡部先輩の横をすっと通って、長机に散らばったままだった自分の筆記用具を片付けた。
「わかってるよな」
「わかってます」
私はペンケースのチャックを閉めながら答えた。跡部先輩の言わんとしていることはわかった。
そして、それを口に出さない彼の優しさも。
「慈郎先輩は悪気があってあんなことを言ったんじゃないって、わかってます」
わざわざ言葉にしたのは、私の精一杯の誠意だった。それは単なる気丈な振りに見えたかもしれない言い方だったし、跡部先輩は何も言わなかったから、それが伝わったかはわからない。
ただ、跡部先輩はもう、その話をしようとはしなかった。
資料室のドアを閉めた跡部先輩はぽつりと言った。
「忍足は外部受験なんだな」
私は一瞬手を止めたが、すぐにまた作業を再開した。
「そうみたいです。詳しいことは、よくわかりませんけど」
ふと横を見れば、片付いた長机の上のすでに完成した書類の上に、跡部先輩のペンが転がっていた。
跡部先輩は閉めた資料室のドアに寄りかかって、私が荷物をまとめる様をただ見ていた。鞄にしまう時に目に入った携帯のサブディスプレイは、午後8時を示していた。
「お先に失礼します」
私のせいで帰れなかったのは跡部先輩なのに、私の方が先に生徒会室を出た。
侑士から大学に合格した、とメールが入った時、学校では卒業式の準備が進められていた。
私は授業中に入ったそのメールに返信はせず、その日の生徒会が終わった後に直接侑士の家に向かった。夕食の買い物をするのは忘れた。侑士が今どこにいるのかわからなかったし、もしかしたら大阪にいるのかもしれないと思ったが別によかった。
でも、インターホンを鳴らすと、機械に加工された侑士の声がちゃんと返ってきた。
『はい』
「私」
『ん、今開けるわ』
侑士がドアを開けた時、「なんや久しぶりやな」と笑う侑士の顔が懐かしすぎて涙が出そうになった。家の空気もそれは同じだったのに、部屋の隅にいくつか重ねられたダンボールの箱が、私の知らない風景を形作った。
「合格おめでとう。ごめん、急だったから、何もないけど」
「ありがとう。気持ちだけ受けとっとくわ」
侑士の髪は、少し伸びた。この前は気づかなかった。
私はどこか、変わっただろうか。
「卒業まではこっちにいるつもりやけど、ちょっとずつ片付けてんねん」
「そっか」
じゃあ、私も自分のもの持って帰らなきゃいけないね。
そう繋げようとした続きは、喉にひっかかって出てこなかった。
「あ、そや」
侑士は思い出したように寝室に入った。
そして持って出てきた紙袋を私に渡した。
中身を開けると、それはいつか侑士に貸した、私の手袋だった。
「それなあ、部屋片付けとったら出てきてん。返そ思て袋に入れてんけど、渡しそびれとったから」
侑士は黙って立ったままでいる私を見て、自分だけソファに座った。
「、知ってるか?俺らが付き合い出したんて、10月12日やで」
私は過去を振り返るのなんて好きじゃない。
人は過去を振り返る時、ろくなことを考えていない。
嘘つき。
記念日なんて覚えてないって言ったくせに。
嘘つき。
「部屋片付けてたら出てきた」なんて嘘なくせに。
嘘つき。
付き合い始めた時、誕生日はもう過ぎたって言ったくせに。
嘘つき。
隠してることは、もうないって言ったくせに。
嘘つき。
今年も、来年もずっとよろしくって言ったくせに。
「」
「何」
私は、立ったまま。
侑士は、座ったまま。
「泣いてんのん?」
「泣いてない」
涙なんか、出ていない。
私はきっと侑士を睨んだ。
「椎茸298円は普通だよ」
「うん」
「ご飯は冷凍すればもつんだよ」
「うん」
「それからね。お好み焼きとご飯一緒に食べるの、絶対変だよ」
「うん」
嘘つき。
何回言ったってやめなかったくせに。
私がいなかったら、どうするのよ。
侑士がいなかったら、私は誰にご飯作ればいいのよ。
ねえ。
どうして今手袋なんか返してくれるの。
そのまま大阪まで持って行けばいい。
「」
何、と発音したつもりの声は音にならなかった。
掠れて透明な空気になって消えた。
「別れよか、俺ら」
「…嫌」
「じゃあなんでそんなこと言うの」
「さあ、なんでやろなあ…」
嘘つき。
私は、侑士にキスして欲しかった。
でも侑士は、キスしてはくれなかったし、抱き締めてもくれなかった。
ソファに座って、立ったままの私を眺めていた。
私は手袋の紙袋を握り締めた。
きっと新しく何本か皺が入った。
キスしてとも言えない私に侑士を責める権利はない。
先に過去を振り返ったのは、私だった。
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