雪の降る夜だった。
傘を少し後ろに傾けてしゃがみこんでいた私に、粒の大きな雪がふわりふわりと降りかかった。
曲げたジーンズの膝に、雪が落ちては溶けていくのを見ながら、私は子どもの頃両親と行ったスキーを思い出した。子供用の紺のスキーウェアに落ちた雪は、肉眼でもはっきりと結晶の形がわかったけれど、滅多に雪の降らない東京の雪はまるでかき氷のようだ。
傘の角度を変えるのも面倒で、そのまま自分に降り積もる雪を眺めていた。
静かな夜だった。
雪は音を吸収すると聞いたことがあるが、どうやらそれは事実のようだ。
傘に雪が落ちるかすかな音のほか、たまに通る車の音以外は何も聞こえなかった。
どれくらいそうしていたのか、ふいに伏せた睫毛に雪が一粒落ちた。
私は特に驚きもしなかったが、反射にしては遅い速度で瞬きをした。そしてもう一度目を開いた時、視界の上の方に革靴を履いた足が二本写っているのに気づいた。いつから視界に入り込んでいたのかは、わからない。
ゆっくりと顔を上げると、黒い傘を背景に、紺碧の双眸が私を見下ろしていた。
「雪だるまになるぞ」
「…うん」
長いこと黙り続けていたせいか、それとも単に寒いからか口がスムーズに回らなかった。
「立て、オラ」
「…うん」
私は緩慢な動作でジーンズについた雪をはらった。冷えてほとんど感覚のない指が雪と冷たい水で濡れた。
景吾は立ち上がることさえ億劫に感じられてもたくたしている私を見かねたのか、コートの上から腕を掴んで私を引っ張りあげた。久々の高い視点は妙に新鮮だと思っていると、景吾はポケットから鍵を出して私に渡した。
そのまま景吾はくるりと背を向けて、脇に停まっていたタクシーのトランクを開けた。
私は景吾がトランクから大きなスーツケースを出すのを、雪を見ていたのと同じようにぼんやり見ていた。
静かな夜の駐車場に、スーツケースの車輪の音が響く。
「なんで家ん中入んねえんだ、バカ」
「だって」
「貸せ」
結局景吾は私から鍵を奪い取って、一人でさっさとエントランスに向かった。私は少し遅れてその後を追う。
オートロックを解除し、エレベーターに乗って景吾の部屋に着くまで景吾は終始無言だった。景吾の口数が少ないのはいつものことだし、疲れてるのかなとも思ったし、私も寒さで口まで凍ったみたいだったから気にならなかった。そんなに寒いと感じているわけではないのに、体はなんだかどこもかしこも凍ったみたいだから不思議だ。
久しぶりに入った景吾の部屋は少し埃っぽいような気がした。景吾は部屋に入るとすぐに暖房を入れた。手を洗ってから買ってきておいた食材とミネラルウォーターを冷蔵庫に入れようとして、冷蔵庫の電源が入っていないことに気がついた。
電源を入れて、空の冷蔵庫の前に膝をついて物を詰め込みながら聞く。
「景吾、コーヒー飲む?コーヒー豆挽いたやつ買ってきた…」
「ああ」
景吾が私と同じように膝をついて、私の手を取っているのを見て私は目を丸くした。
「なに…」
取った手をそのまま私の方に近づけて冷蔵庫に押し付け、景吾は私に口付けた。
開いたままだった冷蔵庫の扉が背中の後ろでぱたんと閉まった。
突然のことでうまく反応できないでいる私に、景吾は執拗に唇を押し付けた。
冷えた私の唇と違って景吾の唇は温かい。
横に置いてあったミネラルウォーターのボトルが、袋ごと倒れて我に返る。
「…コーヒー」
「…う ん、そう、だね」
私はコーヒーを入れるために立ち上がり、景吾は着替えのために隣の部屋に入った。
暖房の効き始めた部屋の中で、私は少し泣いた。
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