どうしてあの人は、私にだけ笑いかけるのだろう。




















 それから僕らは時を経て




















 あ、わかった。この人は確か、『忍足先輩』。
 下の名前は、知らないけれども。
 私が記憶力を総動員して、やっとこさその名前を記憶の中から掘り当てたのと同時に彼は言った。

 「と付き合いたいねんけど」

 私は驚くよりも先に眉を顰めた。付き合うというのはこの状況でちょっとコンビニまで付き合うとか、そういうことではないだろう。
 所謂、男女交際というやつ。
 それはわかったがなぜ、この人が私にこんなことを言うのだろうか。
 忍足先輩とは、一応面識らしきものはあった。私の友達の一人であるカナが、テニス部のマネージャーをやっていたからだ。でも、今までに私が彼と交わした会話と言えば、忍足先輩が私に名前を尋ね、「どうも」と答えた、ただそれだけだった(私が名乗ろうとする前に素早く隣にいたカナが答えた)。
 それ以来忍足先輩は私に会うと笑いかけるようになった。その笑い方がなんだか胡散臭かったので、私はあまり好きではなかったが。
 私はカナとその他二、三人と一緒にいることが多かったので、それに対して挨拶をするのはカナだったが、あれは私に向けられていた、と思うのは私の思い上がりではないと思う。
 その矢先の「付き合いたいねんけど」。
 なるほど、この人は私と付き合いたかったのか。
 私は告白というものを受けるのは初めてだった。何と答えようかと考えていると、忍足先輩が一歩私に近づいた。

 「あかん?」

 あかん?
 私は生まれも育ちも関東だが、「あかん?」が是非を問う言葉だということくらいは知っている。どうしてこの人が関西弁を操るのかは常々気になっていたが、この際どうでもいい。
 あかん?
 どうやらこの質問には是か非かの二択で答えなければいけないらしい。
 私は少し考えて、答えを出した。





 「

 朝のホームルームが終わると同時に私はカナたち三人に呼び出された。一時間目は移動教室ではないので焦ることはないが、どうして同じクラスなのにわざわざ空き教室に呼び出すのだろう。
 そう思いはするけれど、女の子はこういう内緒話という演出が好きなのだ。学校という社会の中を上手く渡っていくには、こういう付き合いもそれなりに必要なのだ。
 それにしても、心当たりがない。
 だが、不思議に思う間もなく、ドアを閉めた瞬間カナが言い放った。

 「、忍足先輩と付き合ってんだよね?」

 …驚いた。昨日の今日なのに、女の子の情報網というのは凄い。
 変なところに感心して黙っていると、カナの両脇の二人が責め立てるように言った。

 「カナが忍足先輩のこと好きって知ってたくせに、なんで黙ってたの?」
 「いつから忍足先輩のこと好きだったのよ?」

 私は首を傾げた。まったく、昨日から不可解なことばかり起きる。
 カナって、忍足先輩のこと好きだったんだ。
 確かにかっこいいかっこいいと騒いでいたけれど、それが好きだということだったとは知らなかった。それに、ついこの間まで生徒会副会長もやっている部長の人が好きだと言っていなかったか?

 「…ごめん。私カナが忍足先輩のこと好きって知らなかった」

 それに、それとこれとどういう関係があるの。
 そんな話をますますややこしくすること間違いなしなことは言わないけれど。
 三人は納得しかねるという表情をしていたが、カナの沈痛なため息でその空気は破られた。

 「…いいよ。だったらしょうがないよ。だって忍足先輩のこと好きなんだもん、順番なんて関係ないよ…」

 他の二人が哀れみたっぷりの視線をカナに送る。
 私はいよいよわからなくなった。あまりにわからなすぎて、むしろ一種の名誉挽回のためにぽろりと出てしまった。

 「あのさ、私別に忍足先輩のこと好きじゃないんだけど」

 途端に三人が三人とも、怒りに満ちた目で私を振り返った。
 どうやら失言だったらしい。カナ以外の二人が喚き散らし、カナが時々同情を誘う声で「もういいよ」と言うのを聞きながら私は失敗したなーと考えていた。
 授業開始のチャイムが鳴る頃、三人は教室へと戻り、一人残された私の片頬は赤く腫れ上がっていた。





 ついてないな、と思った。
 私はこの日、生まれて初めて授業をサボることになった。よくわからない理由でビンタされた上に、授業までサボらされるなんて割りに合わない、と思ったが、この顔で授業に出るのも何だし、私は遅れて教室に入るのが大嫌いだった。
 私は授業の始まった後の静かな廊下をぺたぺたと歩いて、保健室に向かった。およそ健康優良児の自分が、保健室を利用するなんて一年に一回あるかないかで、高校に入ってからは初めてだった。昨日から不可解なことばかり起こるし、それに伴って色々な初体験をさせられる。
 やっと辿りついた保健室のドアには「只今保健医不在」のプレートが掛けてあり、極めつけとも言える不運に笑いが漏れそうになった。しかしノブに手をかけると意外にも開いたのでこれ幸いに中に入らせてもらうことにした。
 保健室の中の鏡で頬を見ると、自分で感覚している程には腫れていなかった。所詮女の子の力だし、躊躇いというかうしろめたさもあったのだろう。さすがに中のものを勝手に使うわけにはいかないので、私はポケットに入っていたタオルハンカチを水で濡らし、軽く絞った。
 頬に当てるとひんやりとして気持ちがいい。私は長椅子に座って、あと一時間ここでどうやって時間を潰そうかと考えていた。
 タオルハンカチをもう一度濡らし直そうかと思った時、ドアが開いた。咄嗟に勝手に入った言い訳を考えたが、結果としてそれは無駄な行為だった。

 「…?何してん?」

 わかった。
 今日はもうこういう日なのだ。私は今日この先どんな不思議なことが起ころうとも驚いたりはしない。

 「怪我、したんで。先輩こそ何やってるんですか」
 「んーサボり?遅刻して入るの気まずいやーん?」

 私はそうですか、と言ってタオルハンカチを濡らすべく立ち上がった。
 そういえば、さっき忍足先輩は私のことを「」と呼んだ。それも昨日「あかん?」と聞かれ、特に断る理由もなかった私は別にいいと言ったのだ。
 そう、私が付き合ってもいいと思った理由なんてそんなもの。断る理由も特になかったから。「付き合う」と「好き」はきっと別次元だよ、カナ。
 私は思う。忍足先輩だって付き合いたいとは言ったけれど、好きだとは言わなかったじゃないかと。忍足先輩だって私のことを好きかどうかなんて、わからない。
 私がタオルハンカチを濡らしていても、忍足先輩は何も聞かなかった。
 長椅子に座って欠伸をしていた。私は自分が叩かれたことを忍足先輩のせいだとは思わなかったが、聞いてみたいことは一つあった。

 「先輩」
 「何や?」
 「誰かに言いました?昨日のこと」

 私が頬を冷やしながら尋ねると、忍足先輩は視線を泳がせて少し考え込んだ。

 「あー…言うたな。マネに。一緒に遊びに行こ言うから俺彼女いるから言うて」
 「…そうですか」
 「あかんかった?」
 「いえ、別に」

 彼女。
 今、私は忍足先輩の彼女なのだ。まるで現実味のないそのポジションが可笑しくさえあった。その煙のような概念のために、私は頬を腫らしているのだ。

 「
 「はい」
 「テスト期間の間は、一緒に帰ろな」
 「…はい」

 明後日には中間テスト一週間前になる。それからテストが終わるまでの間は、毎日練習のテニス部も練習が休みになるのだろう。
 結局一時間目の間には保健医は戻って来ず、私はぽつりぽつりと忍足先輩が話す言葉に相槌を打つことで一時間を過ごした。
 しかし、保健室を出る時には保健室に入る前よりも少し、忍足先輩のことが好きになっていた。
 中間テストが終わる頃にはそれよりさらにもう少し、忍足先輩のことが好きになっていた。





 冬に入った頃には、私はもう敬語を使わなくなっていた。忍足先輩は私に敬語をやめろとは言わなかったけれど、いつの間にか自然とそうなった。
 忍足先輩が一人暮らしをしていることを知ったのは、付き合い始めて一ヶ月も経った後で、その頃から私は時々家に行くようになった。部活で忙しい忍足先輩とはあまり帰ったりできなかったので、休みの日に家に行ってはDVDを観たりして一日を過ごした。
 その年のクリスマスは私が気まぐれに行きたいと言った美術展に連れて行ってくれて、食事をして帰った。冬休み中何度かは会ったが、年越しはそれぞれでした。年が明けてから忍足先輩が実家に帰らず、一人年を越したことを知った。ちょっとした罪悪感にも駆られたが、謝ることなどきっと彼は望んでいないと思ったので、何も言わなかった。
 三学期が始まってからは、平日にもちょくちょく家に行って、夕食を作った。
 部活が休みの土曜日、映画に出かけた帰りに忍足先輩はコートのポケットに手を突っ込んだまま言った。

 「今日、うち泊まっていけへん」

 忍足先輩の吐いた息が空気に混ざって消えていく。私のもきっと白かったが、近すぎてよくわからなかった。

 「うん」

 その日もいつものように夕食の買い物をして、忍足先輩の家に向かった。
 食事をして、洗い物まで済ませた後、下着はコンビニで買ったけれど着るものはどうしようなどとぼんやりつけっぱなしのテレビの画面を眺めていた。
 不意に視界が遮られた。

 「ちょっと、テレビ見てるんだけど」

 突然のキスに憮然とした声を出しても、忍足先輩はそこからどかなかった。

 「ほんなら、今何の番組やってるか言えるか?」
 「…世界ふしぎ発見」
 「残念。もう終わったでーそれ」

 時計を見るともう10時を過ぎていた。番組が替わったことにも気づかないほど意識が遠くに行っていたとはうかつだった。

 「正解はブロードキャスターや」

 忍足先輩はそう言ってちゅ、と私の頬にキスをした。
 私は何ヶ月か前、クラスメイトにそこを叩かれたことを思い出した。とっくに腫れは引いているし、もちろん跡など残っていないが、ふとあの時のカナの言葉が蘇った。

 「抱いてええ?」
 「最初からそのつもりで連れてきたくせに」

 忍足先輩は「バレたかー」と茶化して笑った。バレるも何も、という感じだが、忍足先輩が私に気を使って茶化したり色々していることはもうわかる時期だった。

 「あかん?」

 私っていつからこういう女になったんだろう。

 「いいよ」





 朝、台所から聞こえる食器と食器の擦れる音で目が覚めた。
 体中がだるい。首とか腕とか関係のなさそうなところまで軽い筋肉痛がした。
 隣に忍足先輩がいないことで、寂しさまでとはいかないが、何か空虚な感じを受けた。
 失敗した、と思った。私だけ寝ているというのは何かだらしがないという気がする。
 ベッドの下に落ちていた服を適当に身に着けて、リビングに入った。
 忍足先輩がレタスをちぎりながら振り向く。エプロンすればいいのに。

 「おーおはようさん。洗面所そっちやでー」
 「…知ってる」

 寝起きの自分の声が掠れていた。ぺたぺたと洗面所に向かう。

 「侑士、タオル借りるね」

 一応許可をとっておくと、向こうを向いたままの侑士が「うんー」と返事をした。
 洗った顔を乾いたタオルに押し当てると、侑士の匂いがした。
 私は昨日の夜よりも、もっと侑士のことが好きになっていた。






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