結局あの後侑士は三日間寝込み、バタバタしているうちに大晦日がやってきてしまっていた。基本的に体力のある侑士にしては遅い回復だと思う。大晦日を自宅で過ごすか侑士と過ごすか迷ったけれど、侑士が「うち来てや」と珍しく命令形で言ったのでそれに従うことにした。
「何や?それ」
年越しそばを食べた後、私が出してきたお菓子を侑士は物珍しそうに見た。
「かもめのたまご」
「どしたん」
「お兄ちゃんがお土産に持って帰ってきた」
8つ年の離れた私の兄は東京の企業に就職したが、今は岩手の支社に配属になっているため、年末やお盆にしか帰って来ない。忙しい両親の代わりに、幼い私の面倒を見てくれたのは兄だった。
「お兄ちゃん帰ってはるん?」
「ほんならと年越したがってはったやろ。悪かったなあ」
「まあ。別に、平気」
小さい頃お兄ちゃん子だったのは私の方だが、今では年が離れていることもあって、たまに帰ってくると兄は私にかまいたがる。今年のお盆にそんな兄に付き合って買い物に出た時、たまたま侑士に会った。だから侑士は兄を知っているのだが、その時の侑士のわざとらしいほど真面目な挨拶は忘れられない。
テレビをつけると、新年へのカウントダウンが始まっていた。日本人は年が変わるということになぜこんなに騒ぐのだろう。12月31日の夜は、いつもと何も変わらず過ぎていくというのに。
私は脈絡なく跡部先輩のことを考えた。跡部先輩なら、きっとそれに対する明確な答えをくれそうな気がした。
「忍足先輩」
「ぶっ何や?それ」
侑士は飲んでいたお茶を噴出しそうになった。
「言ってみただけ」
侑士のことを、名前で呼ぶようになったのはいつからだったか。
付き合い始めの頃は、忍足先輩と呼んでいた。むしろ敬語すら使っていた気がする。
「ねえ、私たちが付き合い始めたのって、何月何日だった?」
「んー…さあ、忘れたわ」
まだ冬にはなっていなかったことは覚えている。侑士に「と付き合いたいねんけど」と言われた時、私はまだコートを着ていなかった。そしてその年に侑士の誕生日は付き合い始めてすぐにその話題が出た時、侑士はもう過ぎたと言ったことを覚えているので、多分10月の終わりか11月だろう。私たちは今まで普通のカップルのように、記念日というものを特別視してこなかった。
「なんで?」
「別に」
ああそうだ、思い出した。
私が初めて侑士を侑士と呼んだのは、この家に初めて泊まった、その朝。いやその前の夜か。前の夜に侑士の名前を呼ぼうとしたのは覚えているけれど、私はその時実際に呼んだんだっただろうか。日にちまでは覚えていないが、あの時はもうかなり寒い時期に来ていた。
「珍しいな。がそんなこと言うなんか」
本当だ。まったく、私らしくもない。
いつから付き合い始めたのか思い出せないままだったけれど、忘れたのは侑士も同じならそれもいいと思って考えるのをやめた。そうこうしているうちにテレビのカウントは一桁になり、着々と減っていくその数はついに0になった。画面の中ではクラッカーが鳴ったり銀のテープや紙吹雪が舞って、盛大に騒いでいる。
「明けたな」
「うん」
また一年が始まる。今年私は三年生になり、侑士は高校を卒業する。
「…今年もよろしく、侑士。来年も、ずっと」
「うん」
やれやれ、私も月並みな日本人に過ぎないようだ。
「…何」
侑士は私の頬にキスしてにししと笑った。私は近づいてくる侑士の唇に自分の唇を重ねた。年が変わっても、きっと私たちは変わらない。
そう信じて。
年が明けて、最初の生徒会の活動は始業式の前日だった。生徒会のメンバーはそれぞれ「久しぶり」だの「今年もよろしく」だの挨拶をした。たった二週間足らずでそう変わるわけもないのだが、心なしかみんなどこか変わったように見える。夕子先輩に至っては至っては季節はずれにも日焼けをしていた。それを長太郎に指摘されると、夕子先輩は「ハワイ行ってきたの」と笑った。仮にも三年生だというのに呑気な話だ。とは言っても、氷帝学園高等部の生徒はほぼ例外なく附属の大学に進むので、定期考査さえ落とさなければあまり関係はないのだが。そのおかげでこんな時期まで三年生も生徒会活動をしていられるし、生徒会選挙自体は11月に行われるものの、見習い期間を経た新しい役員への引継ぎは2月に行われるのだ。
この日の仕事は、二学期中に充分な準備をしていたこともあって、打ち合わせだけで終わった。終業式の講評として校長先生に貰った文書を読んでいると、いつの間にか跡部先輩を除くメンバーたちは帰ってしまっていた。その跡部先輩も荷物だけはまとめて置いてあるが、今は生徒会室にはいない。
終業式はそう悪くなかったらしい、と思って満足していると、私の座っていた長机の上に何かがカンと音を立てて置かれた。ミルクティの缶がラベルをこちらに向けて立っている。音も立てずに生徒会室に戻ってきていた跡部先輩が帰り支度をしていた。
「コーヒー代だ。戸締りしとけよ」
跡部先輩はそう言って鍵を投げて寄越すと、生徒会室を出て行った。
跡部先輩が誰かに戸締りをさせるのを初めて見た。
私がミルクティに手をつけたのは、ぬるくなり始めてからだった。
侑士が「俺この家引き払お思てんねん」と言ったのは、新学期が始まってすぐの夜、拭いた食器を片付けている時のことだった。
「ふーん。大学に近いとこに引っ越すの?」
私は大して気にもせずに聞いた。氷帝大学は都内だが、高校とは少し離れた場所にある。
「いや、そうと違てな」
「どう違うの」
「俺な。大阪の大学行こと思てんねん」
私は食器棚を閉めようとしていた手を思わず止めた。耳を疑った。
「本気?」
「本気」
私はまた「ふーん」といいながら食器棚の戸を閉めた。その言い方が、いかにも不自然だったことには自分でも気がついている。
「じゃ、私たち遠距離恋愛ってわけ」
「そういうことになるな」
侑士の声はいつもと変わらないが、表情はどうなのだろう。私が侑士の方を向いていないからわからない。
「寂しい?」
侑士の声が聞く。
私は振り向かない。
「寂しいよ」
侑士は一言「ごめん」と言って後ろから私を抱き締めた。
その日、それから家に着くまでの自分をあまり覚えていない。
でも、侑士が受験が終わるまで家に来るなと言ったことだけは、理解できた。
次の日は金曜で、もう仕事の終わった生徒会室に私はやることもなく一人で座っていた。
新学期が始まって以来、私はあまり生徒会室に居残ることはしないようにしていた。本能が警告したのだ。これ以上踏み込んではいけない、と。
私はもうこれ以上跡部先輩に近づいてはいけない。それを感じ取った私は、極力跡部先輩と二人になる機会を避けていた。帰れば待っていてくれる人もいた。しかし今日は、私が食事を作るべき相手はもういない。
私は書類ではなく、真っ暗な窓の外をぼんやりと眺めていた。
「」
そうだ、跡部先輩は、まだ学校にいた。職員室から戻ってきた跡部先輩がドアの前に立っていた。
「まだ何か残ってたか?」
今跡部先輩を照らすのは夕日の光ではない。
今跡部先輩を照らすのは、生徒会室の、目が痛くなるほど人工的な、蛍光灯。
「」
だが、今の跡部先輩はぞっとするほど美しい。「」と呼ぶ声が頭の芯に響く。
いつだって、あと一歩踏み込んだら危ないと思ったその時にはもう遅いのだ。
「お前、泣いてんのか?」
侑士。
どうして今私から目を離したりしたの。
こんなのは幼稚な責任転嫁だ。わかっている。
でもどうして、今。
今。
「何とか言えよ。具合、悪いのか?」
泣いているのかと聞かれた時にはそんなはずはないと思った。しかし今、現実に私の頬を温かいものが伝っている。跡部先輩はきっと気づいている。この涙が体の不調などから来るものではないことに。
跡部先輩は少しずつ私に近づく。そして、もう私の傍まで来た跡部先輩は、私の頬に手を差し伸べた。
私はその様子を身じろぎもせず、瞬きもせず、ただ見ていた。跡部先輩は不思議に無表情で、そっと私の涙を拭った。涙を拭ったその手は、私の頬にかかった髪を耳の後ろにかけて、そのまま髪の中へと挿しいれられた。
ゆっくりと瞬きをすると、涙が両目からもう一滴ずつ、零れた。
その瞬間、頭の後ろに挿しいれられた跡部先輩の手にぐっと力が入り、無表情だった彼はどこか苦しそうな表情をした。
唇と唇が触れて、頭が固定されているせいで私は逃げられない。なんて、自分を正当化する言い訳を探していた。
口を薄く開く。跡部先輩がしやすいように、侑士とする時みたいに。何か小さな記憶がいくつか過ぎった気がしたけど、もういい。
薄く目を開けると、歪んだ視界に跡部先輩の伏せられた睫毛が映った。見たことのない表情だった。行為それ自体もなんだか余裕がなくて、息が出来なくて苦しくて、唇の隙間から小さく息が洩れた。
私が息を洩らした瞬間ぴたりと行為が止み、髪から手が引き抜かれるのがわかった。
「…悪かった」
低い声でそれだけ言って、跡部先輩は出て行った。
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