私は、歩くのが人より速いと思う。
だいたい、イライラするのだ。ちんたら歩いている人を見ると。エスカレーターだって絶対に右側の人の流れている方を使うし、そうでなければ階段を使う。移動教室に友達と連れ立って向かうなんてもってのほかで、別に友達が嫌いなわけではないのだけど、女の子の小さな歩幅に合わせて歩くくらいならどうぞごゆっくり、私は先に行かせていただきます。
そんなわけで今日も私は一人で音楽室に向かっていた。
私立と言えども廊下まで暖房が効いているわけではない。こんな時期にのんびり歩いて特別教室棟の音楽室まで歩いて移動するなんて、馬鹿げていると思わないのだろうか。
「」
私のことを名前で呼ぶ男はそう多くないが、その中では二種類に分けられる。
そこに立っていたのはそのうちの一種類、「生徒会のメンバー」の一人、跡部先輩。
「なんですか」
「レジュメの下書きできたか?」
「まだです。でもあれって締め切りは」
「わかってる。まだならいい」
短い会話だった。
私はまた音楽室に向かって足を進め、跡部先輩もそのまますれ違ってどこかに歩いて行く。
跡部先輩は私よりも歩くのが速い。
男と女なのだから当然と言えば当然なのだが、多分跡部先輩は男の中でも速い。
しかし彼の歩き方はどこか余裕のない私と違って、普通に歩いているのにいつの間にか人より先に進んでいる、といった感じだ。私が速く歩く一番の目的は「無駄を省く」ことなのだが、彼の場合は違うのかもしれない。いや、もしかしたら理由などないのかもしれない。わからない。
とにかく、廊下は寒いのだ。
私は余計なことを考えるのをやめて、歩くことに集中した。
「。何やってんの?」
「レジュメの下書き」
「レジュメて何や?」
「レジュメはレジュメ」
私は鬱陶しくまとわりつく侑士を無視して仕事を続けた。
本当は締め切りは明々後日で、まだまだ余裕はあるのだが。
「それ今やらなあかんのん?」
「うん」
「侑士くん、ちゃんにかまってもらいたい病やねんけど」
「へえ。そりゃ厄介な病だね。病院行く?」
「んー。いい」
だから胸を触るな。気持ち悪い。
「ウザイ」
「冷たい奴ちゃなあ」
口ではそんなことを言いながら、侑士は一向にやめる気配を見せない。面倒になった私はシャープペンシルを置いた。第一ここは侑士の家なのだから、勝手なことをしているのは本当は私の方なのだ。
侑士は私のことを名前で呼ぶ男のもう一種類、「身内」。
身内というのは世間一般には家族とかそういうものを言うのだろうけど、彼氏も大別して身内に入れることにした。
侑士は中二の時関西から上京してきて、マンションで一人暮らしをしている。侑士も跡部先輩と同じく私の一つ上だから、一人暮らしを始めてもう五年になる。
テニスの推薦ということだったけど、どうしてそこまでして一人で上京してきたのか、そこのところはよくわからない。
以前聞いてみたことがあったけどうまくはぐらかされたからだ。
いや、はぐらかされたというのは正しくない。私だってその時、「ふーん」とかなんとか深く突っ込まなかったんだと思う。
一番大切なのは今で、過去を言っても今も過去も何も変わらない。
侑士と私は、そうして一年を共に過ごしてきたのだ。
「、れじゅめやらんでええの?」
「いい。締め切り明々後日だから」
いつもこうやって私は侑士に流されてしまう。というより、きっと無意識にそう仕向けている。そしておそらく侑士も、それに気づいている。
なんだかんだ言って、私は侑士とこうしているのが好きなのだ。
放課後、生徒会室に入るとそこにはまだ跡部先輩しかいなかった。
「できました」
「そこ置いとけ」
結局、レジュメは締め切り当日の提出となってしまった。
「珍しいな」
「はい?」
「お前いつももっと余裕持って出すだろ」
跡部先輩は別の書類に目をやったまま言った。
「…邪魔が入ったんです」
「忍足か」
「まあ、そんなところです」
その後は、また沈黙。
私も残っている仕事をやっつけようと長いテーブルの跡部先輩の向かいに座った。
私がレジュメの下書きをして、跡部先輩がパソコンで打ち直すというのはもはや恒例になっている。家にパソコンはあるし、生徒会室にだって最新のパソコンが備えてあるけれど、私はキーボードを打つという作業がどうも苦手というか、好きではないのだ。最初はそれでもいやいややっていたが、いつからかそれは跡部先輩の仕事になっていた。
野球部の予算追加の書類に目を通していると、カタカタと軽快にキーボードを叩く音が聞こえた。いつの間にか跡部先輩がパソコンのデスクの方に移動して、私がさっき出したレジュメを脇にキーボードを打っていた。
青白い光が跡部先輩の顔を照らす。
私はもしかしたらその作業ではなく、パソコン自体が嫌いなのかもしれない。
跡部先輩は、綺麗だ。
私は跡部先輩の顔がとても好きなのだ。
長い睫毛も、形の整った眉も、綺麗な肌も、艶を帯びた唇も、窓から射し込む夕日に照らされている時が一番美しい。少なくとも、私の知っている中では。
パソコンの人工的な光が、彼の、彼ゆえの美しさを奪っている。奪っているとは言い切れない、そこにはまた違った美が存在するのだが――私はそれが好きではない。
「」
「はい」
「ちょっと来い」
考え事をしていたことを見抜かれたのかとどきっとしたがそうではないらしい。
跡部先輩はパソコンの画面を指でトントンと指した。
「ここ、順番逆にする」
「はい」
跡部先輩はレジュメの修正をする時、決して私に是非を問うたりしない。理由も細かく説明しない。
告げられるのはいつも決定事項だ。
だが、私を呼んで、変更を告げることだけは絶対に忘れない。
私はまた席に戻る。
生徒会室では無駄な動きは不要なのだ。特に、私と跡部先輩が二人でいる時には。
さっきの書類を続きから読むことを諦めて、最初から読み直そうとプリントの一番上に視線を移した時、生徒会室のドアが開いた。
「すみません!遅れました!」
先頭に入って来たのは長太郎。その後に慈郎先輩、夕子先輩と続く。
この二人は別に悪びれた風もない。もともとのんびりした性格の上、そもそも生徒会に決まった集合時間などというものはないのだ。
「跡部」
夕子先輩が跡部先輩に声を掛けた。
「が来てるよ」
、という音に一瞬ぎくりとするが自分のことではないことにはすぐ気がつく。
私はまるで聞いていない振りをしてプリントに並ぶ文字の羅列を追った。
「今仕事中だって知らないのか?」
「もーそういうこと言うから入って来れないんだよ」
夕子先輩は渋る跡部先輩を半ば引っ張るように廊下へ連れ出した。
戻ってきた夕子先輩はお菓子の箱を開けて皆に配っている。一番先に飛びついたのは慈郎先輩で、長太郎は遠慮がちに受け取る。私だってムースポッキーは好きなのだが、急に箱を向けられてなぜかつい咄嗟に「いらないです」と言ってしまった。
貰えば良かったと少し後悔しつつも文章を消化不良気味の脳へ送っていく。
私と同じ名前の跡部先輩の彼女を思いながら。
■BACK ■NEXT