跡部先輩がこなす仕事量は私の比ではない。
 量として言えば私だって少なくはない。ただ、部活で忙しい長太郎などに比べたら、一日における仕事時間が多く取れるということだ。
 きっと私なんかが手伝わなくても、跡部先輩は容易くその膨大な量の仕事をこなしてしまうだろう。
 決して口に出して言いはしないが、もしも私をもう少し頼ってくれたら、跡部先輩を少しは楽にしてあげられるのに、と思う。





 今日は自販機じゃんけんに負けた。
 今いるメンバーは長太郎、慈郎先輩、跡部先輩、私の四人だったけれど、跡部先輩は要らないと言ったから、三人分を買いに走ることになった。

 「長太郎はほうじ茶ね。慈郎先輩はココアですよね」
 「よろしくー」

 慈郎先輩はそう言って120円を私の手に落とした。もう誰が何を飲むのか、皆の「いつものやつ」は覚えてしまった。
 長太郎が120円多く手に落としたのを変な顔をして見ていると、「昨日の120円返すの忘れてた、ごめん」と彼が悪いわけでもないのにすまなそうに言った。
 私は人に借りたお金は忘れないが、貸したお金はすぐ忘れてしまって、返してもらっても「何だっけそれ」ということがよくある。
 ドアを開けると一気に冷気が入り込んでくる。生徒会室の気温を下げないようにさっとドアを閉めて、薄暗くなり始めた校舎の中をいつもよりさらに早歩きで自販機に向かった。





 土曜でも授業のある私立の高校は多いが、氷帝学園高等部はそうではない。
 にもかかわらず私は制服姿で生徒会室にいた。やるべき仕事はもう残っていなかったが、生徒会室に侑士の家の合鍵を忘れたのだ。
 我ながら間抜けだと思ったが、今日は侑士が部活に行く日なので合鍵がなければ入れない。それに、侑士に宣言したわけではないが今日はもう餃子を作ると決めていたので、侑士が帰ってくる前に家に入っていたかった。
 合鍵はあっさり見つかった。
 生徒会室の窓からはテニスコートが見える。どうやら侑士は真面目に後輩指導しているようだ。
 跡部先輩の姿は見えない。
 生徒会室も暖房が入っていなければ寒いので、私はさっさとその場を後にした。
 冷えた指先に息を吹きかけながら、この間侑士に貸した手袋を返してもらっていないことを思い出した。
 夜にもう一度思い出せたら、返してもらって帰りは手袋をして帰ることにしよう。
 こんな寒い中、外でテニスとは侑士たちも大変だ。





 直接侑士の家に向かった方が近いので私は買い物をして、制服のまま侑士の家に向かった。部活自体は日が暮れる頃には終わるはずだが、休みの日はミーティングやら何やらで帰ってくるのは7時を過ぎることが多かった。侑士の帰ってくる時間に合わせて餃子を包みながら、部活がなかったら侑士にも手伝ってもらおうと思っていたのに、と思った。
 侑士は餃子を包むのが上手い。以前一度手伝わせた時、初めてやったと言っていたのに手早く綺麗に包めていて、小学生の頃皮をボロボロにしながら四苦八苦したことを思い出して悔しくなったものだ。侑士を見ていると、手先の器用さとセックスの上手い下手に関係がないとは到底思えない。
 包んだ生の餃子が累々と積みあがった頃、インターホンが鳴った。侑士のマンションはオートロックではないし、どうせ侑士だとわかっているので直接玄関に出る。鍵を持っているくせに、侑士は私がいるとインターホンを鳴らしたがるのだ。

 「おかえり」
 「ただいま」

 
 マフラーからのぞく侑士の頬は少し赤くなって、夜になってさらに冷え込んだのだとわかった。

 「寒かったでしょ。お風呂沸いてるから先に入って」
 「選択権なしなん?普通はここでご飯にする?お風呂にする?それともあ・た・し?やろ?」
 「寒い。私の予定の中でそういうことになってんの。早く入って」
 「へーい」

 侑士のマフラーとブレザーを剥いで、侑士をバスルームに押し込んだ。
 マフラーとブレザーを定位置に掛けていると、バスルームから微妙に反響する侑士の声が聞こえてきた。

 「今日実家から宅急便来んねんー。来たら出といてー」

 はいはいと軽く返事をして、私は餃子を焼く準備にとりかかった。
 もう年末だというのに、こんな時期に宅配便とは今年も侑士は冬休みさえ実家に帰らないようだ。侑士にその気がないのか向こうにその気がないのかはわからないけれど。
 予想外に出た煙とも湯気ともつかない気体にむせていると、インターホンが鳴った。焼きあがった餃子をお皿によけてから受話器を取った。

 「はい」

 少し間があって相手は答えた。

 『跡部だ』
 「あ…はい」

 私は意味もなく慌てて受話器を置いた。

 「侑士。侑士」
 「何やー?」
 「別に開けなくていい」

 バスルームのすりガラスの戸越しに侑士が開けようとしたのを読みとって、私は素早く戸を押さえた。

 「判子やったら引き出しの一番上やで」
 「それは知ってる。そうじゃなくて跡部先輩が来たよ」
 「跡部が?なんで?」
 「知らないよ。どうする?」
 「…上がってもろとき」

 わかった、と小さく返事をして私は玄関に出た。

 「すみませんお待たせして」

 跡部先輩は私が現れたことに別段驚いた様子もなく、私にとっては新鮮な私服姿で立っていた。

 「忍足は?」
 「あの…今ちょっとお風呂に入ってるんで、上がって待っててください」
 「ならいい。悪かったな」

 踵を返そうとする跡部先輩の袖を咄嗟に掴むと、ひんやりと冷たかった。

 「すぐ出てくると思うんで!」

 跡部先輩はまだ少し考えるような素振りを見せたが、結局上がるということに落ち着いたようだ。跡部先輩を部屋に招き入れてしまってから、ちょっと自分が恥ずかしいのではないかということに気づいた。
 制服にエプロンという妙な格好だし、何しろ私が今作っていたのは餃子なのだ。部屋はもちろん、私自身も餃子臭いに違いない。こんなことならビーフシチューとか、グラタンとか、もっと臭わなくて女の子らしいメニューにしておけば良かった。

 「ここ、座っててください」

 私は跡部先輩の上着をハンガーに掛けてソファーに促した。さりげなく、台所に一番遠いところに。この状態で餃子を焼き続けるのも何だと思ったが、一緒になって座るというのも気まずいので所在無くうろうろしていると、侑士が頭をわしゃわしゃと拭きながらバスルームから出てきた。

 「おー!今日餃子なん?」
 「そうだよ。侑士が言ったんじゃん。それより、跡部先輩が」

 我ながら言い訳がましいと思いながらも、わざと跡部先輩に聞こえるように餃子を侑士のせいにした。

 「跡部、なんか用か?」

 タオルを頭の上に乗せて侑士はソファーに座った。
 再び餃子を焼くべきか焼かざるべきか迷っていると本日三度目のインターホンが鳴ったので、これ幸いに宅配便に違いないと受話器を取った。それは案の定宅配便で、私は「忍足」の判子を手に玄関へ出た。宅配便のダンボールの箱には、私も見覚えのある行書に近い綺麗な字で忍足侑士様と書いてある。
 ダンボールを両手で抱えて部屋に戻るともう話が終わったらしく、侑士はダンボールを受けとってくれた。

 「、上着だ」
 「え、もう帰るんですか?せめてお茶でも」

 さすがに一緒に餃子でも、とは言えなかったが、言ってしまってからまるでここを自分の家のように扱ってしまったことに気づいた。
 侑士が口を挟む。

 「そうやで跡部。なんなら餃子食べてったらどや?」

 なんとなく侑士らしくない、と思った。どこがどうおかしいかと言われても答えられないのだけれど、なんとなく。
 頑なに帰るという姿勢を見せる跡部先輩を、侑士は強引に引っ張って食卓につかせた。跡部先輩はもう抵抗するのも面倒くさいというように黙って座っている。自分も食卓についた侑士が「腹減ったわー早よ焼いて」と私を急かした。





 跡部先輩が、餃子。
 世の中にこんなに餃子の似合わない人が二人といるだろうかと思いながら、餃子の続きを焼き始めた。ご飯の量は、足りると思う。いつも一合半炊くので、侑士がおかわりをしなければいいことだ。仮に足りなくなってもまだ冷凍庫に冷凍したのがいくつかある。餃子にする時、侑士はいつもとことん餃子を食べたがるのでその日のメニューは餃子とスープとご飯、サラダやお浸しがつくこともあるが大体それだけになる。でも三人で食べるには足りないので、侑士の家に来る予定のない明日のためにストックしておいた、鶏肉の煮物の封印を解くことにした。
 いつもは私が座っている席に跡部先輩が座って、その向かいに侑士、侑士の隣に私という形で座った。人一人増えるだけで、1LDKの学生の一人暮らしには広すぎる侑士の部屋が狭く見える。

 「跡部に餃子て、なんやおもろいとりあわせやなあ」
 「餃子に取り合わせも何もねえよ」

 私は、侑士と跡部先輩が喋っているのをあまり見たことがない。侑士が跡部先輩の話をするのも、跡部先輩が侑士の話をするのも、あまり聞いたことがない。どちらか一方と一緒にいる時間は長いのに、不思議な話だ。
 しかし馬鹿なことを言う侑士を軽くいなす跡部先輩、というのは微笑ましいというかなんというか、この二人は案外いいコンビなのかもしれない。
 侑士と食事をする時私たちはもともとそんなに多くの会話をするわけではないけれど、今日は二人の会話に入っていくわけにも行かず、私は黙って餃子を酢醤油につけた。

 「薄味だな」

 その言葉が私に向けられていたことを知って、私は食べる手を休めた。
 跡部先輩が言っているのは、餃子ではなく鶏肉の煮物。

 「ああ、所謂関西風ってやつです」

 私の作る料理は総じて味が薄い。侑士と付き合いだす前はこんなことはなかったのだが、侑士の好みに合わせているうち、自然とそうなってしまった。
 私は関西風とは、薄味と言うよりだしを大事にする味だと解釈しているのだが、関東風に慣れている人には薄いだけに感じるかもしれない。
 私は侑士が跡部先輩に、「何か文句があるのか」という趣旨の冗談めかした突っ込みを入れるだろうと予測していたが、侑士が口にしたのは別のことだった。

 「今気づいてんけど何で制服なん?」
 「遅。学校行ったから」
 「せやからなんで学校行ったん?」

 私はどうも侑士にこういう答え方をする癖がある。
 突っ込まれることがわかっていて論点と微妙にずれた答えをわざと出す。

 「忘れ物したから。生徒会室に」

 跡部先輩の視線がこちらに向けられたのがわかった。侑士は何を、とは聞かず「ふーん」と言ってご飯を口に運んだ。その後はまた、二人の会話を黙って眺めていたが、その光景にどこか違和感というか現実ではないような感覚を受けた。
 「私生活」と「生徒会」という決して交わることのないものの混在は、私にとって全く、現実味がない。
 私の「私生活」は侑士を中心に回っている。
 私の「生徒会」は跡部先輩を中心に回っている。
 そこまで考えた時、私は気づいた。
 私が侑士の次に時間を長く共有している、たとえ実際にそうでなかったとしても私がそう感じるのは、跡部先輩なのだということに。





 食事の後に温かいお茶を三人で飲んで、湯のみが空になると跡部先輩は帰ると言った。侑士は「せっかちやなあ」と言ったが特に引き止める理由もなかったので、上着を渡して玄関まで二人で見送る。

 「邪魔したな」
 「そんなことないよ。な?」

 どう答えるべきか迷ったが、頷くだけにしておいた。

 「

 ドアを開けてから跡部先輩が言った。

 「来週は忙しくなるからな」
 「はい」

 私の答えを確認して、跡部先輩はドアを閉めた。
 そうか。来週で今学期の授業は終了だ。生徒会も今年最後の追い込みに入るだろう。
 ダイニングに戻ると、跡部先輩はどちらかというと寡黙なのに突然部屋が静かになった気がした。
 日常が戻ってきた、という感じ。
 どちらからともなく二人で洗い物をしていると、侑士が手元を見たまま言った。

 「今日どーする」

 聞かれて今日は制服のままで来たことや、家に母親から頼まれた家事が少し残っていることを思い出したが答えた。

 「泊まってく」

 やっぱり、一回家に戻れば良かった。
 それにしても家中が餃子臭い。ちょっとこの状態で抱かれるというのはあまりにムードがない。寝室は別にあるけれど、後で一度窓を開けて換気しよう。侑士ももう一回お風呂に入ってもらって、歯磨きを念入りにすることにした。
 換気扇のスイッチを強に切り替えながら、跡部先輩もこの臭いを家まで持ち帰ったのだろうか、と考えた。








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