終業式の翌日の天皇誕生日は両親と過ごす約束をしていたので、クリスマスイブの今日、侑士とは一日ぶりに会うことになる。あの映画をやっている映画館はそう多くなかったため、私たちは少し遠い所にある駅で待ち合わせとなった。
 私は待ち合わせには遅れないが10分前に着いているというタイプでもない。しかし行ったことのない場所だったため、用心しすぎたのか15分前に着いてしまった。やることもないので、改札の外の壁に凭れて手持ち無沙汰に映画のチケットを眺めていた。映画館の場所もいまいちよくわからないけれど、上映は5時からで4時半に待ち合わせをしたから多分大丈夫だろう。
 こういう時の時間の流れというのは、異常に遅い。5分と経っていないだろうとわかっていながら、バッグから携帯を出して時間を確かめようとした時、私は耳に入った声に咄嗟に顔を上げた。
 それは、ごく小さな低い声だった。
 日本にという名の女の子が何人いるのか知らないが、私一人ということはまずないだろう。しかし、少なくともと紡いだその声は唯一のものだった。

 「?」

 今度はもっとはっきり、しかも私に向けられていた。そしてその時には私はもう理解していた。
 先程声の主が紡いだのは、と上につかない別のだったことを。

 「こんなとこで何してんだ、お前」

 改札の前から跡部先輩がこちらに向かって歩いてくる。先輩は、一緒ではない。
 なぜならさっきの「」は先輩が改札の中に消える直前に発せられたものだったからだ。

 「待ち合わせです。先輩こそ、どうしてここにいるんですか?」
 「帰り道だ」

 会話は途中で中断せざるを得なかった。私の携帯が鳴ったからだ。
 たとえ携帯が鳴らなかったとしても、どこに入った帰りなのか、訊く気はなかったけれど。
 私は跡部先輩にちょっとごめんなさい、と言って「忍足侑士」とディスプレイに表示されている携帯の通話ボタンを押した。

 「もしもし」
 『…?』
 「どうしたの、侑士」

 私はすぐに侑士の様子がおかしいことに気づいた。侑士は遅刻をする時、必ず約束の時間の前には連絡をくれるけど、今回はその類ではない。

 『ごめん…あかん…俺、熱出て』

 受話器の向こうで侑士がゲホゲホと咳き込む。
 まったく、侑士は馬鹿だ。連絡が今になったのも、ぎりぎりまで行こうと無駄な策を色々練っていたからだということくらい私にはわかる。

 「うん、わかった。今から行くから大人しく寝てて」
 『今来たらうつんで…?』
 「あのねえ。私が行かなかったら誰が行くの」
 『せやけどに』

 そこまで言ってまた咳き込む。

 「わかったからとにかくあったかくして水分取りなさい」

 侑士の返事を聞かないうちに電話を切った。今の侑士には、あまり長く電話で会話などさせない方がいい。

 「忍足か?」

 話しかけられて初めて跡部先輩がいたことを思い出した。

 「なんか風邪ひいたみたいです」
 「そりゃ災難だな」

 侑士に「わかったから」と言ったのは、もちろんその場限りの方便のつもりだったのだ。しかしその時、私の目はさっきまで気にも留めなかった左手のチケットの隅に印字されている小さな文章を捉えた。
 捉えてしまった。

 「先輩」

 跡部先輩は何も答えないが、私は跡部先輩が会話中のあまり意味のない呼びかけに逐一答える人ではないことを知っている。

 「映画のチケットが、あるんです。良かったら観ませんか?」

 有効期限:2004年12月24日。
 




 映画のチケットを見せた時、跡部先輩は意味ありげに「お前、この映画観るのか?」と訊いた。質問の趣旨がよくわからなかったが、とりあえずはい、と答えると跡部先輩はにやりと笑って映画を観ることを了承した。
 映画館はガラガラで、私たちのほかはなんと誰もいなかった。映画が始まった時その両方の意味がわかった。

 『Wie nennt er sich?』
 『Er will nicht genannt werden.』

 字幕が、ない。
 次々と繰り出される意味不明の言語に呆然としていると、隣に座っている跡部先輩の肩が震えていた。
 …侑士のバカ。
 侑士が意図してやったことではないし、彼は今哀れにも風邪に苦しんでいるのだがそう思わずにいられなかった。

 「先輩」

 跡部先輩は目に手の甲を当ててくつくつと笑っている。
 跡部先輩も跡部先輩だ。知ってたんなら教えてくれたっていいのに。

 「先輩ってば」

 跡部先輩は自分を落ち着かせるようにひとつ息をついて私を見た。

 「映画館では静かにするもんだぜ?」
 「…私たち以外誰もいませんよ」

 跡部先輩はいよいよ本格的に笑い出した。私は憮然としてそれを見ていたが、跡部先輩がこんなにおかしそうに笑うのを初めて見た。

 「侑士がチケット貰ってきたんです」
 「何も言ってないだろ」

 もうどんなに言い訳しても名誉挽回はできないと諦めて、私はシートに背を預けた。

 「

 またからかわれるのかと身構えて視線だけを動かした。

 「ちゃんと観ろよ。勿体ないだろ?」

 やっぱりだ。

 「だから…」
 「観ろ。訳してやる」

 そう言って跡部先輩はこれまでの筋を説明し始めた。笑いながら今までの話をしっかり聞いていたことも驚きだが…ドイツ語までできるのか、この人は。
 跡部先輩の常人でなさにあらためて驚かされながらも、せっかく説明してくれているので聞きながらスクリーンを見た。説明がスクリーンに追いつくと、跡部先輩は台詞を同時通訳し始めた。初めはなんとなく変な感じがしたが、観ているうちに慣れて私はスクリーンに夢中になった。内容は第二次世界大戦直後のドイツを舞台にしたラブストーリーで、時代背景を感じさせ社会問題とも絡められたストーリーはなかなか面白かった。
 私は跡部先輩が訳していることなど忘れて見入っていたが、ストーリーが盛り上がるにつれて主人公の男女が甘い愛の言葉を囁きだすと、突然それが跡部先輩の声であることを自覚した。ドイツ人はヨーロッパの中では真面目というか堅い人々だと言われるが、それでも海の向こうの人は言うことが違う。跡部先輩は淡々と棒読みで訳しているのだが、私は一人でどぎまぎしていた。
 跡部先輩も、先輩にはこんな言葉を甘く低く囁いたりするのだろうか。
 頬に触れると少し熱くて、こんなことに気づかれたらまたからかわれると思い跡部先輩を見たが、跡部先輩の目はスクリーンに向けられたままだった。





 エンドロールが流れ始めると跡部先輩はため息をついてシートに深く凭れた。

 「私、飲み物買ってきます」

 映画の同時通訳を二時間弱もやっていたのだから、当然のごとく疲れただろうし、喉も渇いただろう。私はまだ暗いままの客席を立って、ドアを出てすぐの所にあった自販機に向かった。
 暖房がかなり効いていたから冷たいものの方がううだろうかと思ったが、跡部先輩がいつも飲んでいる種類のコーヒーがあったのでそれを買って、換えたいと言われたら換えられるように自分の分として冷たい烏龍茶を買った。
 席に戻ると照明が明るくなり始めていたが、次の上映は控えていないようだったのでそのまま席に座った。

 「温かいコーヒーと、冷たい烏龍茶買ったんですけど、どっちがいいですか?」

 烏龍茶、と答えた跡部先輩に缶を渡して、コーヒーの方のプルタブを起こした。

 「ありがとうございました。ドイツの映画って私初めて観ました」
 「俺も通訳しながら観たのは初めてだ」
 「助かりました、ってば」
 「恩に着せてるつもりはねえよ」

 わかってます。ただからかってるんでしょう。
 これ以上突っ込まれる隙を見せてなるものかと、跡部先輩を一瞥してから視線をコーヒーに移した。跡部先輩があんなにおかしそうに笑うのも初めて見たが、こんなに人をからかうのが好きな人だったとも初めて知った。

 「ほらよ」
 「?」

 跡部先輩が目の前に飲みかけの烏龍茶を差し出していた。
 これはまた、何か新たなからかいの手段だろうか。

 「コーヒー飲めないんだろ、お前」
 「私言いましたっけ、そんなこと」
 「聞いてはいねえな。違うのか?」
 「…違いません」

 私は素直にそれを受け取って、プルタブを起こしただけのコーヒーを手渡した。
 冷たい烏龍茶は暖房の効きすぎで乾いた体を、上から順番に潤していった。







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