侑士の彼女になる前、自分がどうやって一日を過ごしていたのか、もう思い出せなかった。
 土曜の朝を迎えては途方に暮れて、それでもやっぱり終わらない日はないんだと日曜の夜の眠りにつく。
 月曜日が始まって、安心感を覚えながらも今度は放課後に怯える。
 二月になっても、私の周りに侑士の気配はどこにもなかった。代わりに私を包んだのは、触れた唇から伝わる緊張感。
 私はあからさまに跡部先輩を避けるようになった。もうそれしか方法はなかった。





 購買や学食に向かう生徒で賑わう昼休みの廊下を、私は3年E組に向かって逆走していた。生徒の模範となるべき生徒会役員が廊下を走っているのだから、こんなにひどい話はなかったがそんなことにはかまっていられなかった。
 跡部先輩が先輩と別れた、と風の噂で聞いた。
 もう限界だと、そう思った。
 私の感情をぎりぎりのラインで食い止めていた最後の砦は崩された。
 それがいつのことだったのか、あのクリスマスイブの日に関係あるのかないのか私にはわからない。もう、何もわからない。

 「あの、忍足先輩呼んでもらえますか?」

 私は教室の入り口にたむろしていた男子生徒のうちの一人を捕まえて聞いた。その人は息を切らしている私を見て、周りにいた友達と顔を見合わせた。
 お願いだから早くして欲しい。
 後ろからひそひそと「忍足の彼女ってあの子?」と言う声が聞こえる。

 「忍足なら、新学期始まってから学校来てないよ。なあ?」

 周りの人がうんうんと頷く。私は一瞬間を空けて、ありがとうございました、と一言お礼を言うと昇降口に向かった。
 どうして気づかなかったのだろう。平日いつも制服のままでいる侑士が、私服で私を出迎えていたのに。
 どうして。そんな問いの答えは明白だと、わかっていながら自分に問いかけた。
 鞄は教室に置いたままだったが、携帯と、そして合鍵はちゃんとポケットの中にある。
 私は昼休みの教室を脱け出した。





 ドアの前まで来て、私は入るかどうか躊躇った。
 目を瞑って頭の中を一回りだけした後、私はインターホンを鳴らさずに鍵を開けた。

 「?」

 侑士はマグカップを持って、勉強机のある寝室に入ろうとしているところだった。
 半開きになった寝室のドアの隙間から、参考書や筆記具が所狭しと勉強机に重ねて置かれているのが見えた。

 「どうしたん、こんな時間に。コートも着んと」
 「侑士。お願い。大阪行かないで」

 侑士は一瞬だけ驚いたような表情を見せ、すぐに静かな目になって私を見つめた。
 マグカップから湯気が立ち昇り、鼻腔に届いたその香りになぜか私は胸を締めつけられた。

 「。入り。寒いやろ」





 侑士は紅茶を淹れてソファーの前のテーブルに置いた。私には紅茶を淹れてカップに注ぎ、私に出すまでの一連の動作が勿体つけているようにしか見えず、目で侑士を急かした。侑士はそれに気づいているのかいないのか、ゆっくりと自分もソファーに座った。

 「俺なあ、私生児やねん」

 侑士の唐突な発言に、私は思わず眉を寄せて首を傾げた。

 「俺のほんまの父親はまた別やし、顔も知らんのやけどな。とにかく、今の親父の前妻が死んで俺の母親が忍足の本妻になったんは俺が5歳ん時や」

 私は訳がわからず、侑士をただ見つめるばかりだった。
 こんな話は初めて聞いた。

 「その母親も小6ん時死んだ。ほんまに結婚運ない親父やで。忍足の人間にしてみたら忍足と全く血の繋がりのない俺みたいな子供の存在はおもろなかったやろけど、前妻と親父の間におった姉貴が家を継ぐことで話はまとまっとったから別に良かってん。姉貴も俺には良うしてくれたし」

 それが大学の話とどう結びつくのかわからなかったけれど、とりあえず頷いた。突然のことすぎて、まだ頭の中で話が整理できなかったが、侑士が東京に来たのはやっぱり家を避けていたためなのだろうと、そう思った。

 「せやけどその姉貴が事故で死んだ。連絡が来たんは、去年のクリスマスイブやった」

 侑士は淡々と話を続ける。私は混沌とした意識の中で、去年のクリスマスイブまで記憶を遡った。
 去年の、クリスマスイブ。
 私は場違いにも頭に浮かんだ私をからかう跡部先輩の顔を打ち消して、侑士に尋ねた。

 「でも、侑士はあの時風邪で…」
 「そうやな。に電話したすぐ後や。死んだんは前の日らしいけど、姉貴を手術したんは親父やから、連絡が遅うなったんやと思う。とにかく、俺はすぐ大阪に発った」
 「手術…?」
 「ああ、俺の実家忍足総合病院言う病院やねん。裏で汚いことばっかりやってるから見かけばっかり大きい病院やで」

 そう言って侑士は自嘲気味に笑う。少しずつ話が理解できてきた私は、クリスマスに侑士の部屋で見た、紙袋に入っていないいくつかの薬を思い出した。あれは、病院に行って貰ったのではない。きっと侑士が、実家で誰かに持たされたのだ。あの日、私は侑士が病院に出かけていたのだと思い込んでいたが、考えてみれば侑士の口から一度もそんなことは聴かされなかった。
 あの日、私がここで出会ったのは、実家から戻ってきたばかりの侑士だったのだ。

 「姉貴は医大生やった。いずれ病院を継ぐためにな。せやけど、その姉貴が死んだ今、忍足には俺しか残っとらん」
 「侑士が、病院継がなきゃいけないってこと?」
 「そういうことや。裏口入学はいくらでもできるけど、俺は自分の力で医大に入りたい」

 色々なものが入り乱れ、ぐるぐると混乱する頭を何とか鎮めようと無意識に唇を噛んでいた。
 全てのことは理解しきれないまま、浮かんだ疑問が口をついて出た。

 「侑士は、一人なんじゃないの…?」

 侑士はじっと私を見つめた。

 「本当のお父さんも、本当のお母さんも、いないんでしょ?だったら侑士は大阪に行ったって、一人なんじゃないの?」

 侑士は答えない。でも視線は外さない。
 私はそんな侑士に苛立ちさえ感じた。

 「医大なら、こっちにだってあるよ。こっちにいれば、私はずっとここにいるよ」
 「

 静かな声だった。
 静かなのに凛と響くその声は、私を黙らせた。

 「今まで隠してて悪かった。もう隠してることは何もない。俺は忍足の息子や。俺は、でも誰でも、誰が何と言おうと考えを変える気はあれへん」
 「…なんで謝るの…。今まで、私が何も聞かなかったんだよ…」

 さっきまで混乱していた頭が今はなんだかぼうっとした。

 わからない。わかりたい。わかっている。わかりたくない。

 手の甲で目を擦る私を見て、侑士は寂しそうに笑った。

 「今日はもう帰り。送るから」

 私は侑士に促されるまま、玄関に向かった。体に力が入らなかった。
 肩から侑士のコートがかけられていたことに気づいたのは、誰もいない私の家の、誰もいない私の部屋に着いてからだった。





 侑士は気づいたんだろうか。
 私が侑士を引き止めるのは、私自身のためだということに。
 私は怖かった。
 今でも怖くてたまらないのだ。
 自分の中に芽生えた気持ちを、確かなものにしたくなかった。
 芽生えた?
 芽生えたのではない、それは以前からずっと、そこに確かに存在していたからこそ姿を現したのだ。
 どうしてこういう偶然というものは重なるのだろう。
 起こるべくして起こった偶然だったのだろうか、今ではなかったにしても私はいつか直面していたのだろうか。
 安静にしていればいつかは治る、風邪のようなものだと信じていた私は甘かったのだろうか。
 こんな私を、侑士はまだ好きだと言ってくれるだろうか。
 侑士を独りには、したくない。
 たとえそれがエゴだとわかっていても。 






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